Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

記録と記憶。

私は記録したがる方だった。
写真、日記、記念品、切符、チラシ、テープ等など。なんでも残しておきたくなった。
なぜなら、自分の存在感が素直に信じられなかったから。
そういった記録ものを残しておいてみることで、自分はあの時確かに存在していたと自己確認しようとした、 自己確認したかった。
けれどもそれは、そういったものをとっておける状況があるからできたことであって、実家がなくなってしまった私には許されなくなって、佐久を出た時ずいぶんと処理した。
以来あまりこだわらなくなってはいる、と思う。
できることなら、家家族日本すべてから離れてしまいたかった、。外国移住を計画したんだが、・・見事に?失敗した。

とにかく、今はその日その時を生きていく、ある意味なげやりおまかせ、(まぁどうせおまかせなら仏さんにおまかせしたいが) そんな感じで、記録にこだわりらない。。

さて、記憶。
記憶は日々薄れていく。
時間というフィルターを通して、事実は自分の中で変わっていく。それは、自分にとっての都合にいいものになっている、と思う。

2001年、アリゾナ州ビッグマウンテンのナバホのある家族を訪ねた時、記憶はあてにならんなと実感したものだ。
九年ぶりの訪問だった。
1992年の時は、その年にアメリカであったセイクレッドランの参加者の日本人の若者と一緒で、インディアンのおじさんの車に乗っけてもらって、行った。私は彼としゃべっていて、辺りに注意を向けていなかった。だから、距離感が欠けていた
そんなあいまいな記憶だけをたよりに、あの、Big Mt.へ、
一人で行ったのだ。

給水塔のあるところまでは問題なかったけど、それからが判らなくなった。陽がくれてきていたし、ほんとにこの道でいいのか不安になって、もう戻ろうかと思っていた時、向こうからやってくる車があって、訊ねることができて、まだ先と判ったからよかったけれど、そうでなかったら、ひき返していただろう。
道はあってたけれど、若者としゃべっていた私には、時間の感覚がなかったわけだ。
記憶とはそんなものだろう。
もともと、記録ー私の頭の中にも、あるいはメモもとってなかったしーしておかなかったわけだから、判らなくて当然だ。
けれど、記録してたらよかったかというと、疑問だと思う。
そしたら、その時私はかの若者との、今でも有意義だったと思っているおしゃべりをすることはなかったろうから。

記録しておかないと、正確さ(場所とか時間とか方向とか)は著しく落ちる、と思うが、
かといって、
記録に重きをおきすぎては、なんだかつまらない気がする。
ーものより思い出ー・・?