Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

小栗上野介忠順の

一昨日、倉渕村(現在高崎市)へ行く用事があったから、小栗こうずけのすけ、ただまさ、のお墓がある、東善寺にも行って、お参りしてきた。

お墓には、今も綺麗なお花が添えられていた。
胴体が(後に頭部も)埋葬された場所に建てられたお墓は、些か高い所にあって、
本堂のすぐ近くに、養嗣子と家臣達のと共に墓石があった。
私は、こちらの方でお線香をあげた。
この墓石の向かい側に遺品館がある。遺品館と言っても、小さな小屋程度。小栗忠順の遺品は殆ど残っていない。所謂官軍とやらがかっさらって行って売り飛ばしたからだ、そうだ。
江戸城から落ち延びて来た時に使われたという長持ち?の木箱や小栗家の火縄銃や捕らえられた小栗忠順を運んだ籠もあった。
私が、最も感心したのは、小栗忠順の汗の染み跡が伺える(との)、江戸城登城時に着用したという麻裃。
これは生々しく感じた。

小栗忠順墓石脇に、「154回忌法要」文字がある卒塔婆?があったが。
100年以上・・

今年は日蓮聖人降誕800年法要の年だった。流石に?日蓮聖人に人間味(的親近感)はとても感じられないけれども、
薩長史観(官軍?権力者?)に少なからずの反発を覚えている私として、私は小栗忠順により親しみを感じた次第。
勝海舟やましてや徳川慶喜よりも。

写真はもっとたくさん撮ったけれど。。f:id:Eigamuro:20210925071331j:plainf:id:Eigamuro:20210925071348j:plainf:id:Eigamuro:20210925071500j:plainf:id:Eigamuro:20210925071525j:plain

長谷川和彦、、、と村上龍

長谷川和彦という映画監督が、いた。

あえて、「いた」と言ってしまう。
なぜなら、
1976年『青春の殺人者』で初監督、二作めが1979年『太陽を盗んだ男
で、その後、長谷川和彦監督映画は一つもないから。
これは、まことに不思議だった。

村上龍は、
限りなく透明に近いブルー』(1979)
を初監督したが、それは
製作費を出した多賀英典が監督をやらせたから、と私は思っている。
村上龍監督映画二作めの『だいじょうぶマイフレンド』(1983)、これも多賀英典製作。
だが、この二作とも興行は失敗した。
この、キティフィルムの興行的赤字を救ったのがアニメ『うる星やつら』、と言われている。(実製作は外部委託だが)。
村上龍は、これで映画監督はやめるかと思ったら、ところがドッコイ、また映画を撮った。奥山和由原案で『ラッフルズホテル』(1989)。脚本は野沢尚で、村上龍は監督のみ。その後、『トパーズ』(1992)、『KYOKO 』(1996)、この二作とも村上龍が脚本と監督。合計5本の映画。(1996年以後の村上龍監督映画はない)

長谷川和彦監督映画二作めの『太陽を盗んだ男』(1979)、この映画の製作会社がキティフィルムだった。
製作者は山本又一郎、製作総指揮者に伊地智啓。

だから?
1979年頃or それ以後、多賀英典のもとで、長谷川和彦村上龍の組み合わせで映画を造ろうという企画があった。
村上龍が脚本書いて長谷川和彦が監督で。
ニューヨークシティマラソン』とか

ところが?
長谷川和彦村上龍の脚本を却下。
長谷川和彦は、助監督時代(有名どころでは『青春の蹉跌』)、監督を差し置いて役者達を自分が采配した(そうだ。)
そんな長谷川和彦、不満ならば、自分で書き直すなり、監督してる最中に(勝手に?)脚本無視で撮ってしまうなり、できたと思うのだけれど・・
そうはならなかった。
ともかく、キティフィルムでの長谷川和彦監督映画は、『太陽を盗んだ男』以外に誕生しなかった。

長谷川和彦
1982年にデイレクターズカンパニーを設立した。デイレカン製作映画一作めは『人魚伝説』(1984池田敏治監督)。
デイレカン募集脚本による製作映画が『台風クラブ』(1985。相米慎二監督)。
デイレカン時代、
長谷川和彦根岸吉太郎の監督映画を造りたかった奥山和由の企画や、デイレカン経営危機の際ATG 代表の佐々木史朗との話し合いがもたれたこともあった、そうだが、しかし、デイレカンは約十年で倒産。
一番期待されていた長谷川和彦監督映画は、ここでも誕生しなかった。
デイレカン倒産の要因については、ここでは略。

デイレカンにいた宮坂進(博報堂の営業マン)は、後にアルゴプロジェクト(現在アルゴピクチャーズ)に参加。
アルゴプロジェクトには、多賀英典佐々木史朗(ATG 代表)などもいて、製作配給興行一貫を仕事とする会社でスタートしたが、しかし、興行成績奮わず。
1993年にアルゴピクチャーズと名前を変えて、現在でも存続しているようだが、映画製作はしていない。
ともかく、アルゴプロジェクトにおいても、長谷川和彦の登場は全く見られなかった。

長谷川和彦が35年以上も映画を監督していない要因についても、ここでの考察は略。ほぼその通りなんだろうなと私には思えることが、ネット検索でおおよそ推測できるし。

では。村上龍
むしろ、こっちのが不思議。
検索したら、四作めの『トパーズ』の製作総指揮に多賀英典の名前があった、けれど、なんといっても五作めの『KYOKO』の製作に、あのロジャーコーマンがいるのだ。これが、まことに、びっくり。
どういうわけで、この映画にロジャーコーマンの名前があるのだろう?
誰か、ロジャーコーマンと村上龍を繋げた人がいると思うのだけれど・・?
ものすごく気になっている。

引き続き、調べてみたいと思っている、のだけれども、三作め『ラッフルズホテル』以降の映画に関する情報が少ない。
『トパーズ』はタップできたけれど、スタッフ欄がなかった。

今回はここまで。ということで。

映画を観るということは

先日『映画館で映画を観ることは』
と、書いた。
けれど。それは、あくまでも、映画館が遠くて車で出かけて行かねばならない田舎に住んでいる私の場合だった。
シネコン。これは、映画館で観る環境がいいとは言い難い。上映時間をチェックしてその時刻に合わせて出かけて行って、見終わったら映画館を出なくてはならない。上映される映画は、およそエンタメ系に限られる。
20歳代を東京で過ごした私にとって、映画館で映画を観るのにいい環境というのは、やはりどうしても都市部になってしまう。二本立て上映される名画座とか、エンタメ系ではない映画上映とか。
チョットてまひま出せば(距離的に遠くなるけど)NPO 法人運営の映画館があるが。
そういう映画館は、そのスタッフが上映したい独自のプログラムを組むことが可能だ。かつてあった街中の映画館が商業的にやっていけなくなった、けれども、映画館を失くしてしまいたくないと思った人達が運営をかってでた、そういうところだろう、と思う。やっていけなくなった映画館の存続は別としても。
ともかく。
今の私の場合、映画館へ映画を観に行くとなれば、ほぼシネコンだ。
そして。『あ~~~面白かった』で終わる様な、そういう映画館体験だ。
けれど、映画を観るということは、それだけのことではなかった。
つまり、映画じたい、エンタメ系ばかりではない。もっと様々な映画がある。
映画は、様々な要素を有している。
どの様な映画を観るかによって、映像受容体験は違うだろう。
では。
動画映像を見る、という体験をどうとらえたらいいだろう?

体験というのは、身体全体での感覚だ。
五感以外の感覚も加わる。時間経過感覚とか移動感覚とか、そういったものの、総合的なもの。その体験が、自ら積極的に動いてなされたものか、そうではなくて受動的なものであるかでも、感受性は違うはずだ。

動画映像受容体験は、視聴覚だけだ。
最近では3Dとか4Dとかもあるそうだけど。

私は、戦争を体験したことはないし、大災害にあったこともなく、災害による肉親者の死去も避難所体験もない。
それで、そういう映画を観た場合。
学校とかで受動的に見せられるのではなくて、自分から見に行こうとして観た場合。どう考えるか?

昔、成田三里塚闘争とか学生運動とか水俣病とかのドキュメンタリー映画を観たことがあったのだけれども。それは、全く観ただけのことだった。それで、私自身が何らかの行動を興すことはなかった。水俣へ行ってみるとか闘争運動体験者に会ってみるとか。
全く、今思うと、なア~~~んでみたんだ?って感じ、単なる興味でしかなかった。
遠い所の、過去の、記録。私自身の現実には関係なかった。
そもそも、私は、そういったドキュメンタリー映像を現実にあったことと認識していなかった、と思う。

共感の度合い、だと思った。
他者の体験談を聞く場合もしかり。
自分自身に引き寄せて思えるかどうか。

私は、自分自身の体験でさえ、蓋をしてしまって向き合おうとしていない。

しょせん、人は自分が見たいことしか見ていない、と言ってしまえばそれで終わり、だろう。
現実は、それでは済まないことがある。

歳とってきて、自分の現実に真摯に向き合わねばならなくなっている。というわけだ。

僕が旅に出ていくわけは

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1822724925&owner_id=3672419

確か、陽水の『心もよう』の、前の歌詞は
♪♪遠くの~町の駅にぃ 下りると~~の後に、
♪♪僕らが旅に出てゆくわけは 生きてることを感じるためさ
だった気がする。不確か。

『心もよう』という題は、当時のプロデューサーだった多賀英典命名、だった。と記憶。
なかなかい~~ネーミングだと思う。
もちろん!『心もよう』の歌詞もすばらしい。


さて。
僕が旅へ出て行くわけは・・…
旅へ出ることが可能だったから。(*^_^*)
時間とお金が。
そして。 両親がまだ生きていて帰ってこれる家があったし。
それから。まだまだ体が丈夫で元気があって歳のことなんかまったく気にしないでいられた。

僕の海外旅行は、休暇で(ちょっと)行ってくるというようなものじゃなかった。
だいたい、一ヵ月以上、長くて三ヵ月以上、。 それは、仕事を辞めて貯まったお金で行ったから。それで、文無しで帰ってきた。両親がいる実家がまだあったから。
僕にとって、旅、じたいがそういうものだったし、海外は遥か遠くの異郷の地だった。
はるか昔、東京でさえそうだったのだ。
若さゆえ世界が狭かったということよりも、 今から思えば、現実感が欠如していた、というか、ただ逃げていただけと思える。?
正常な成長発達してる人たちは、当然のように、海外も外人も女性も……現実として理解できているものなのだろうか?
そもそも、現実感てなんだろう?
ともかく。外国は異界だった。
自分の日常から脱して、それ以外の時空間に浸らなければ、意味はなかった。
山がそうだった。
山へ登っていくのは非日常世界へ向うことだった。
映画館の中に入り映画の世界に浸ることも。
自分が肯定できなかったから、現実逃避ばかりで、けれど逃避していってもそれは非日常なのだから一時的でしかなく、また自分の嫌いな日常に戻ってしまい、、その繰り返し・・

初めての海外旅行は1982年、26歳の時で、インド&ネパール、約3ヶ月弱。
その次に1986年、フランス(パリ)&スペインで、2ヶ月程。
その次は1991年、初渡米&カナダへ、3ヶ月チョット。
ついで、1992年09/22に再渡米、この時は1993年の元旦をカナダのモントリオールで過ごして02/09に帰国。

その後2000年まで海外旅行なしで。
1997年春に父が亡くなって、2000年にオーストラリア(タスマニア島)へ。この時は自営で宅配仕事してたけれど、なんとか十日間程長期休暇をとって(自分の宅配仕事を代わりにやってくれる人を探して)行った。
そして2002年に実家(家土地)を失くして。
2001年と2006年に渡米。
2001年の渡米の時はチョット長くいられて、レンタカーでナバホ居留地一周(フラッグスタッフ~Big Mt ~Canyon de celly~Monument valley ~FS)したりデニスバンクスさんの家へ行ったり。
2006年の時は・・私物は居候させてもらってた方や友人の家に置かせてもらってた。
2009年の11月に群馬県の田舎に格安の家を借りることができて、そこに私物をみんなまとめられた。。
それまで、旅、というか住所・居住地は何度も変わっている。車中暮らし生活をしたこともあった。
そういった意味では、僕の人生じたい旅だったかも。
今は‥‥………
借り家があり私物が増えてしまっていて、、一人もんだけど、なかなか自由がきかなくなっている。と思う。 逆にいえば、よくもまぁこれまで転々としてきたもぉんだ)^o^(てなとこでして、。

2006年以後。
その後も海外へ出ることがあったけれど、それは、かつての私にとっての(外国)旅ではなくて、用あり移動の様になっていると思う。外国へ行くことが。。!
これはチョット残念な気持ち。外国への旅行に新鮮味が薄れてしまっている様だ。
今のところ、国内旅行で飛行機に乗ったことはないが、飛行機に乗ることも、かつてはとても新鮮なことだったのだが。

さて。
これからは。・・?

やっぱり、何ヵ月もの様な、かつての海外旅行はもうできなくなっている、気がする。┐('~`;)┌

私のあたりまえ。海外旅行

初めての海外旅行、インド経由でネパール・トレッキング(行きも帰りもコルカタからだった)から帰ってきてから、箸を左手で持つようにし始めた。
1982年02/27~05/01、私が26歳の時だった。

で。海外旅行。
とにかく。外国へはいつも一人で格安航空券で出かけて行く、てなこと言ったら、ひどく驚かれた、ことあった。
私にとって外国への旅行は、一人でディスカウントチケットで行く、というのが当たり前だった、。

そして。
外国は、あくまでも異国、非日常の時空間、、(だった。最近は、どうもそんな感じしなくなってきてる、気がするんだけど。・・?ことに2013年、アメリカ・グラフトン行き。10日間だけ。しかもNY city JFK空港へ直行。 行ってこいだけだったし)
アメリカへは5回行ってるけど。2013年以外はみな1ヶ月以上だった。アメリカ大陸横断は三回。
時間がとれてたんだなぁ~~…

あ~~
もう、あんな旅はできなくなってる。。気がする。


http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1931562993&owner_id=3672419

映画館で映画を観るということは・・

f:id:Eigamuro:20210827122950j:plain想田和弘氏の
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)を読んだ。

想田さんのドキュメンタリー映画は「観察映画」というもので、どうしてドキュメンタリー映画で、しかも観察映画なのか?というところの、解明が書いてある。

テーマをきめないで、事前の調査リサーチをせずとにかく撮り始めて、音楽字幕ナレーションなどもいっさい使わず説明しない、「観察映画」という言葉は、おそらく想田さんが言い出したものと思われ、より積極的に使っている。
そういうドキュメンタリー映画は想田さんが始めたわけではなくて、
フレデリックワイズマンという先達者がいる、そうだ。けれども、想田さんは、想田さん自身の自分で決めた10戒を課して、想田さんの方法論を確立している。
ワイズマンとの大きな違いは、カメラ目線だ。
ワイズマンはカメラ目線を排除するけれど、想田さんは、殊に二作めの『精神』においてカメラ目線を、むしろより採用するようになった。

私は、私自身の幼児体験から、「どうして映画館で映画を観たいのだろう?」という思いがあって、そういうところから「映画とは?」とかいろんなことを考える様になって、ひいては、「体験」「現実」「記憶」などを考え、「見ることとは?」にも興味関心が大いにある。
そういう私にとって、「観察映画」という映画が、私の興味関心をそそるのは当然なのだ。けれども。
私は、『選挙』と『精神』をDVDで見ているけれど、正直なところ、やっぱり?今一つ私の琴線に触れて来なかった。何故か?
興味関心の度合い範囲の違い、だと思う。
その人にとってどんなに面白く貴重な体験であっても、他者にも興味関心(そして共感)がなければ、それは個人的なことに留まる。
勿論、伝え方にもよるだろう。
映像ではどうか?
映像もしかりだ。
ましてや、有料での上映であれば尚更。
自分に興味関心がないことに、わざわざ出かけて行ってお金を払う様な人は、まずいないだろう。何らかの避けられない事情でもない限り。その場合は仕方なく観に行ったことになる。それで観てみたら以外にも面白かったと思えた、場合もあるだろう。
ともかく。音楽も字幕もナレーションもない様なドキュメンタリー映画を、わざわざお金を払って観に行く様な人は、初めから、その映画に興味関心が少なからずある人、だろう。
私はそうでもなかった、ということになる。・・?
いや。私の見方が変だった、気がする。
観察映画、であるならば、観客はより積極的な映像受容体験を必要とするのだ。
例えば、『ダイハード』とか『スピード』とかの映画の様に、その時映画映像を見せられて「あ~~~面白かった」で終わるものではない、ということだ。
そういう映画はそういうふうに造られているのだから。

で、観察映画。
こういう、観客のより積極的な映像受容体験を必要とする映画を、わざわざ観に行くということは、今の私にとっては、ほぼあり得ない、と言える。
わざわざてまひまかけて「観察映画」を観に行こうとは思えない。
・・昔、イングマルベルイマンの映画を観に行って寝てしまったことが思い出される。

つまり、私が映画館にわざわざ出かけて行くのは、自分の現実から遠ざかって、一時の「あ~~~面白かった」を得たいがため、なのだ。

しかるに。
映画を観るとは・・?

「観察映画」であるということを念頭に、再び想田さんの映画をみてみようと
思っている。


想田和弘https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%83%B3%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%BC%98

東大新聞。想田氏へのインタビュー記事
https://www.todaishimbun.org/soda150930/

『凍』再読

f:id:Eigamuro:20210822094508j:plain沢木耕太郎の『凍』(新潮文庫本)を、また読んだ。
あらためて、沢木耕太郎の文章に感心した。

この本は、山野井泰史と妙子夫婦のギャチュンカン北壁登攀(と、そこからの生還)の物語。

山野井泰史が、どうしてギャチュンカンの壁をのぼろうと思う様になるかのところから始まり、ギャチュンカンへ至る迄の行程、北東壁を諦めて北壁にとりついて登攀、山野井泰史だけが頂上に立ち下降、そして高所(7000m以上)での五泊に及ぶビバークを経て生還、帰国入院、凍傷による手足指切断、退院、クライミングへの復帰、そうして再びギャチュンカン北壁を眺めるところで終わっている。

ギャチュンカンは、8000mに少し届かない7000m 峰で、その北壁も初登攀ではなかった、けれども、山野井泰史が挑むに足るものという、その要因を掘り起こしていく記述もさることながら、何よりも秀逸なのは、その登攀と下降の、沢木耕太郎の記述だ。
当然、山野井泰史というクライマーの凄さが浮き彫りにされている。

殊に、ヒマラヤ登山は極地法(大量物資運搬ベースキャンプ設営キャンプ地を上げて行っての頂上アタック)という登り方で始まっているが、8000㍍峰が全て初登頂されてから、少人数(or 単独)でのアルパインスタイル登頂者が現れる。
山野井泰史は、勿論(初めから)、アルパインスタイルクライマーだった。
例えば、植村直己は、その過渡期のクライマーだったと言えよう。

沢木耕太郎は登攀していない。

ギャチュンカン北壁登攀に至る迄や、その中で、山野井泰史の幼年期や父親や叔父のこととか、妙子との出会い、そして同棲から結婚、妙子のこと(生まれとか実家のこととか)、二人で住むことになった奥多摩での暮らしのこととか、それらは、沢木にとって充分守備範囲内と思う、けれども、ギャチュンカン北壁登攀の記述は、どうだろう。。!
これを書ける(実際充分のページをさいている)ということは、・・
そこの文章は、淡々としたものに終始している(勿論全部沢木耕太郎の文章なのだが)。
そこに、著者自身の存在がないかの様に。(まるでドキュメンタリー映像を見ているかの様に)。
・・なんということだろう。

そうして、全体として、起承転結があって、ちゃんと物語(の構成)になっている。
たいしたもんである。