Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

岩波映画製作所

ウィキペディアはてなキーワードーとでは、その情報に多少の違いがあった。

ウィキペディアでは1949年の中谷研究室プロダクションの記述からあるが、岩波映画製作所としての発足は1950年からとしていいといえるはずで、従って、はてなキーワードでの情報を基に書く。

北海道大学低温研究室(当時)の中谷宇吉郎の提唱により、良心的な科学映画の製作を創立の精神として、発足。

岩波書店専務の小林勇、日本映画社キャメラマン小口貞三、共同通信記者羽仁進、 らによって、1950年 設立。 (1949年設立の中谷研究室プロダクションから引継ぎ) 写真家の名取洋之助が参加。 岩波書店の「岩波写真文庫」の編集撮影の多くを担当。

創立当時から1968年に小口貞三が社長に就任するまでの間、社長のポストは空席のまま、岩波書店専務の小林勇代表取締役専務として実質経営していたが、岩波書店岩波ホールとの資本関係はなかった。

1954年「教室の子供たち」(監督・羽仁進)

'58岩波写真文庫、終刊 '61「不良少年」(羽仁進)ーキネ旬日本映画第一位。 '63「ある機関助士」(監督・土本典昭

教育関連や企業PR映画など、記録映画全般の製作をてがけるようになる。(「佐久間ダム」「法隆寺」など。「ある機関助士」は国鉄安全PR用企画だった。当時、蒸気機関車。)

テレビにおいても、「たのしい科学」「日本発見シリーズ」など、 教育科学番組の先鞭となる作品を製作。

1964年の、科学振興財団のテレビ局開局(東京12チャンネル。現テレビ東京) にあたり、良質な番組作品で協力した。

1998年、経営不振により倒産。 残された作品は、2000年に管財人から日立製作所へ売却された。



岩波映画、出身者たち。羽仁進、土本典昭東陽一黒木和雄羽田澄子、諏訪淳、――監督。

鈴木達夫、奥村祐二(or祐治?)、金宇満司、――キャメラマン

東松照明ー写真家。

清水邦夫ー演出家、劇作家。

田原総一郎

ウィキペディア岩波映画に、小川紳介の名はなかった。

しかし、小川紳介で検索してみると。

1959年に新世紀映画に入社、 1960年に岩波映画と助監督契約を結ぶ、'61東陽一土本典昭らと「青の会」結成、'64年岩波映画との契約解消、とある。

→青の会が青林舎へ発展していったと思われる。?が??、要、継続調査。

東京12チャンネルが、科学振興財団の設立とは知らなかった。

田原総一郎は、岩波映画の後東京12チャンネルのディレクターになっている。

そして、ATGで製作した、唯一の本編劇場映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年)は、清水邦夫との協同だった。 (確か、桃井かおりはこれでデビューしたんじゃなかったかな?)

清水邦夫岩波映画出身者とは知らなかった。(?・・何やってたかは?要チェック!)

なるほどなぁ・・

φ(.. )

そういうことだったのかぁ、って感じ。

そういえば。

早稲田大学出身者も多い、かな?

清水邦夫田原総一郎、 東陽一もだし、土本典昭早稲田大学全学連副委員長、'52年の早大事件の不法集会の責任を問われ文学部除籍、とある。

やっぱ早稲田でしょう!? (ナニガ?だけど)(*^_^*)

ちなみに。

羽仁進は、羽仁五郎の息子で自由学園(奥さんは左幸子。こりゃ有名だろう。?)。

小川紳介は、なんと東京都港区芝出身で国学院大卒。

山形国際ドキュメンタリー映画祭は、小川紳介の提唱だったんだね。

→→2006年12月3日に、前橋文学館で見た文化記録映画の監督、飯塚俊男氏は、前橋市生まれで小川プロダクション出身。