Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

フランソワトリュフオ

1932. 2.6 ~1984.10.21 52歳で亡くなっていた。

初めに書いてしまうけど、 フランソワ・トリュフォーの映画を観たことない人でも、
スティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』('77)に、仏人科学者ラコーム役で出演していた人といったら、分かる人が多いんじゃないだろうか?
アメリカの夜』('73)で、アカデミー賞外国語映画賞受賞。
そして、1975年『アデルの恋の物語』。 これはなんといっても、モーリス・ジョベールの音楽がぐっときた。
主演イザベラ・アジャーニ。

さて。
不遇な少年時代を過ごしたことや、シネマテーク・フランセーズの上映室に入り浸り、アンドレ・バザンと出会い、カイエ・デュ・シネマに映画評論を書くようになり、「作家主義」論を発表、バザンとは彼が死ぬまで親子同然の関係だった、そういった事柄は前記した。

最初の短篇を制作した後、1956年にロベルト・ロッセリーニの助監督になり、翌年配給会社社長の娘と最初の結婚をし、映画製作会社を興し、これが『大人は判ってくれない』('59) を製作しえた要因になった。


 以下ウィキペティアより。
≪ 1968年のカンヌ映画祭において、コンテストの必要性の有無をめぐって大論争が巻き起こり、トリュフォーカンヌ映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣をはった。この出来事をひとつのきっかけにして、盟友であったゴダールとの決別を始めとして、ヌーベル・ウ゛ァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的・正統的な落ち着きをみせていく。
恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちから、【トリュフォーは、自分がその地位につくために、ジュリアン・ディウ゛ィウ゛ィエやクロード・オータン・ララ等の大作家たちを批判しおとしめた】と批判されたが、
トリュフォーは、【暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は創りたくないし、政治には興味ないから、自分は恋愛映画しか創れない】と、意に介さなかった。
映画の父として敬慕していたジャン・ルノワールが、アメリカで失意の底に沈んでいるのを聞き付け、何度かアメリカに渡りルノワールを勇気づけ、ルノワールの死に至るまでその関係は続いた。
自分の分身を演じ続けたジャン・ピエール・レオに対しても、息子同然の扱いをしていた。
が、トリュフォー自身は、事実上父親をもたず、結婚と離婚を繰り返し、安寧な家庭生活をもてなかった。
1984年10月21日ガンで死去。
フランスのみならず、世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われたが、 若かりし頃まるで兄弟ででもあるかのように協力しあって映画を創りあげていたコダールだけは、葬儀にも出席せず、追悼文を著すこともなかった。
しかし、後にゴダールは、死後四年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、トリュフォーからの手紙を提供した。
それは、激しくゴダールを罵倒する語調のものだったが、新たに書き下ろした序文をこう締め括っている。 『フランソワは死んだかもしれない。私は生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう』 ≫                                   
         第21回カンヌ映画祭は、1968年五月、まさにパリ五月運動(革命?)の最中でのことだった。