Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

ヌーベルバーグ。2

及び、シネマテーク・フランセーズ

1935年に、映画フィルムを収集していたアンリ・ラングロワが、ジョルジュ・フランジュと共に「セルクル・デュ・シネマ」というシネクラブを結成し、翌年財政的支援者があって「シネマテーク・フランセーズ」として発足。 1948年10月、パリ8区メシーヌ通りに60席の上映室と映画博物館が開館。  ここに、若きトリュフオー、ゴダール、E・ロメール、ジャック・リウ゛ェットらが集っていた。(入り浸っていた)
シネマテーク・フランセーズは、その後フランス政府からの財政支援を受け、映画遺産(フィルムのみならずカメラや脚本台本やら映画に関するあらゆるもの)の保存保管、修復、上映配給を目的とした、文化施設へと発展しており、つい最近の理事長がクロード・ベリ(あの!『チャオ・パンタン』監督の)だった。
アンリ・ラングロワ(1914ー1977)は、映画に関するあらゆるものを収集保管したが、それと同じくらい上映(古い映画の発掘紹介)にも力をいれており、彼の業績からヌーベル・ウ゛ァーグ期の映画人たちが多くの影響を受けている、そうだ。
1968年、フランス政府財務省からの圧力で当時文化大臣だったアンドレ・マルローが、ラングロワを更迭した際、 すぐさま映画人たち(トリュフオーやゴダールら監督たちのみならず俳優や批評家ら)は、ラングロワ解雇反対運動をおこし、二ヵ月後ラングロワの復帰を勝ち取っている。

ラングロワと共にシネマクラブを始めたジョルジュ・フランジュは、アーカイウ゛活動後1949年より映画作家活動に移行し、ラングロワに比べればその評価は今一のようだ。

1948年、アレクサンドル・アストリュックが「カメラ=万年筆」論をレクラン・フランセ誌に発表。
「カメラ=万年筆」論は、万年筆で書く書き言葉と同じ様にカメラで映画を作っていいはずだといったものであり、
作家主義」は、音楽や小説や美術(絵画や彫刻)などの芸術作品に、それぞれ作曲家・作家・画家という表現主体者がいる様に、映画も単なる娯楽作品として消費されるものではなく、映画監督(映画作家)による表現手段とみなす主張、考えである。

'49、シネマクラブ「オブジェクフ49」が発足した。 これがヌーベル・ウ゛ァーグの“揺りかご”になった。
会長にジャン・コクトー
レクラン・フランセーズ誌に執筆していたA・アストリュックやアンドレ・バザン
ラ・リウ゛ュ・デュ・シネマ誌主宰のJ.J.オリオールとジャック・ドニオル・ウ゛ァルクローズ、
シネ・ディジェスト誌主宰のジャン・シャルル・タケラ、
作家のクロード・モーリアック、ロメールブレッソンルネ・クレマン、 等などらが参加。
1949年、「呪われた映画祭」開催。
ジョン・フォード『果てなき旅路』ジャン・ウ゛ィゴ『新学期・操行ゼロ』オーソン・ウェルズ『上海から来た女』ルネ・クレマン『鉄路の闘い』ジャン・ルノワール『南部の人』アラン・レネゲルニカニコラス・レイ夜の人々』ルキノ・ウ゛ィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』など。
この上映作品ラインナップの思想が、後のカイエ・デュ・シネマ誌やヌーベル・ウ゛ァーグの作家たちに受け継がれることになる。
29歳のエリック・ロメール、18歳のゴダール、 17歳のトリュフらもこれに参加。
1950年四月オリオールが交通事故死。彼の死と共にラ・リウ゛ュ・デュ・シネマ誌廃刊。
オリオールを失ったまま第二回「呪われた映画祭」開催後、オブジェクフ49は空中分解。
そうして、1951年四月、アンドレ・バザン、ウ゛ァルクローズ、らによって、カイエ・デュ・シネマが創刊された、のだった。

'53.A・アストリュック監督『恋ざんげ』
'54、フランソワ・トリュフォーカイエ・デュ・シネマ誌に「フランス映画のある種の傾向」掲載。
1955、F・トリュフォー、「アリババと作家主義」(カイエ・デュ・シネマ誌に)発表。
翌1956年に、F・トリュフォーはR・ロッセリーニの助監督になっている。
トリュフォーについては、後記。)
もちろん、ゴダールカイエ・デュ・シネマの同人だった。

1958年11月11日、アンドレ・バザン死去。
アンドレ・バザンによるカイエ・デュ・シネマは7年間。
初代編集長という以外に、バザンが何か著していたのかどうかはよく判らない。
が、両親の離婚から不遇な少年時代を送り、少年鑑別所から出たトリュフオーの面倒をみていたというバザンは、家庭に恵まれなかったトリュフォーにとって精神的な父親だった。
1958年に死去したアンドレ・バザンは、以後のトリュフォーの活躍をみることはなかった。ヌーベル・ウ゛ァーグと呼ばれることになる映画人たちの活躍も。
作家主義」論を発表したトリュフォーは、しかし以後の作品はほとんど恋愛ものばかりだったが。

ちなみに、現在もカイエ・デュ・シネマは続いていて、日本人の映画評論家山田宏一もフランス滞在中その同人となり、ゴダールトリュフォーらと親交を結び、トリュフォーに関する本も著している。(確か、ちくま文庫にあった)
300号から、100号ごとに映画監督を編集長に迎えて記念号をだしており、300号がゴダール、 400号ウ゛ィム・ウ゛ェンダース、 500号マーティン・スコシッセ、 600号北野武、だそうだ。 600号、みてみたいなぁ! 今ではなんか、ネットでも見られるみたい!?で、日本語訳可らしいし。?
カメラを万年筆のように、そして、「作家主義」論、その思想はまさにゴダールの映画そのものといっていいと思われ、(ゴダールについても後記。つまり三期に分かれるのだが)

トリュフォーが、後に映画コンテスト廃止論を主張、ことにカンヌ映画祭を攻撃したことがひとつのきっかけで、かつての盟友ゴダールと絶交状態になった。
以後、トリュフォーは正統的な映画つくりに落ち着いていき、男女の恋愛劇を題材にした映画ばかりを創っていた、というのは、なんだか皮肉な感じがする。
カンヌ国際映画祭粉砕事件(1967)当時は、さほどでもなかったゴダールの方のが、以後政治的志向を強め、商業映画からの決別を宣言し、概念や思想さえ映画化しうることを実践しようとしていった。