Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

ゴダール

ジャンリュックゴダール
1930.12月3日~
子供の頃はスイスで過ごした。 1948年、両親の離婚によりパリに戻り、ソルボンヌ大学に進学、後に中退。 エリック・ロメール主宰のシネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンに参加、 (シネマテーク・フランセーズの上映室にも入り浸り)、トリュフォーやジャック・リウ゛ェットらと出会う。
1949.呪われた映画祭、参加。
1950. 映画批評家としてデビュー。'51.カイエ・デュ・シネマに参加。 1954~'58、トリュフォーと共同で短篇映画を何本か創る。
1959年、『勝手にしやがれ
'65.『気狂いピエロ
'67.『中国女』『ウィークエンド』。 商業主義的映画との決別文、発表。
'68.五月革命。 第21回カンヌ映画祭粉砕事件。
ジガ・ウ゛ェルトフ集団、結成。 「J・R・ゴダール」の名を封印。 ―→'72年まで。 '79、商業映画に復帰。


勝手にしやがれ
ジャン・ポール・ベルモンド演ずる無軌道な若者の刹那的な生きざまという話題性あるテーマもさることながら、即興演出・同時録音・自然光の野外ロケと、ヌーベル・ウ゛ァーグ映画の特徴を踏襲しつつも、物語のスムースな流れを疎外する大胆な編集(ジャンプカット)と、そこから醸し出される独自性とが、非常に評価された。】

★前期。
長編二作め『小さな兵隊』('60)~『ウィークエンド』('67)
前期作品は、ヌーベル・ウ゛ァーグ映画の基本三要素(即興演出・同時録音・ロケ撮影)と、はっきりしない物語の運び、以外には一見すると共通項の少ない多彩な作品群になっている。
アルジェリア戦争(小さな兵隊)、団地売春の実態(彼女について私が知っている二、三の事柄。'66)、SF仕立てのハードボイルド(アルファウ゛ィル。'65) と、いろいろで、一貫して男女の恋愛劇を描き続けたトリュフォーと比べると、その多彩さは明らかだ。
カメラワークやフレーミングといった映画の技術的・話法的要素においても、一作ごとに、場合によっては同じ作品の中でも、異なったトーンが用いられており、この多彩さが、前期作品の特徴。
さらに、「映画内映画」の要素を取り入れていることも、特徴。 映画の製作じたいを作品とした『軽蔑』('63)があり(トリュフォーにも『アメリカの夜』がある)、 『気狂いピエロ』('65)では、ベルモンドが、スクリーンを観ている観客にむかって語りかけるシーンがあった。
気狂いピエロ』('65)のヒット以降、パリ五月革命にむかって騒然としはじめた世相を背景に、ゴダールの映画作品は政治的な色合いを強めていく。

★中期
ゴダールは前期の頃から政治に対する志向があり、政治的なテーマや題材をあまり取りあげなかった他のヌーベル・ウ゛ァーグの作家たちとは、この点において一線を画している。
1967年八月、アメリカ映画が世界を席巻していることを強く批判し、商業映画からの決別宣言文を発表。
パリ五月革命を予見したともいわれるマオイズムをテーマにした『中国女』('67) において、既に政治的表現の傾向が顕著になっていたが、 ゴダールを本当に政治の時代へと踏み入らせたのは、 1968年のカンヌ国際映画祭粉砕事件だった。
コンテストの必要性の有無を巡る論争を契機として発生したこの事件において、戦闘的論陣をはったのはトリュフォールイ・マルで、ゴダールの関与は必ずしも積極的なものではなかったが、 この事件をきっかけに、立場や主張に亀裂が入り、作家どうしが蜜月関係にあったヌーベル・ウ゛ァーグの時代も、事実上終わりを告げるに至る。
商業映画への決別と時を同じくして、「ジャン・リュック・ゴダール」の名を捨て、「ジガ・ウ゛ェルトフ集団」の活動を開始。
ソビエト映画作家ジガ・ウ゛ェルトフの名を戴いたこのグループは、ゴダールと、マオイスト政治活動家だったジャン・ピエール・ゴランとの、映画製作グループ。
反商業主義イコール政治映画との図式で語られがちだが、この時期のゴダール作品は、従来のプロパガンダ映画とは異なり、映画的思考というものの変革を目指した彼にとって、極めて純粋な映画運動であった。
かつてエイゼンシュタインは、映画は概念を表現できるものであり、『資本論』の映画化さえ可能である、といった。 この時期、ゴダールはそれを実践するために邁進したのだ。
作品ごとに現代社会と人間の真の姿に迫ろうと試み続けてきたゴダールは、ヌーベル・ウ゛ァーグ後期あたりから、一作ごとに、娯楽性を剥ぎ取っていき、 ギリギリまで思考を明確にする映画を目指していった。
その結果、ゴダールの映画は極めて政治的な思想的闘争宣言の表現の場へと異化していった。
もはや、同志的な観客のための映画でしかなく、不特定多数の観客を相手にしない、告発の映画だった。 事実、彼は一般映画館での上映ですら「体制側に順応している」として、否定するようにまでなった。
前期における書物からの引用がさらに顕著になり、膨大な映像の断片と、文字の引用(台詞・ナレーション・字幕)とが、洪水のように溢れ詰め込まれた。
しかし、 ゴダールは、映画を単なるメッセージを発する手段とみなしていたのではなく、 映画で何が可能で、何が不可能か、を自省していたのだ。

1979年、『勝手に逃げろ/人生』で、商業映画に復帰。 以下、後期は略。

しかしながら、ゴダール作品に一貫して基底を成しているのは、「分断と再構築」であり、 その二つの機軸によって構成されているという点において、統一されている。