Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

『旅する巨人』

f:id:Eigamuro:20210704111132j:plain『旅する巨人』
副題、「宮本常一渋沢敬三
佐野眞一、著。文春文庫。
これは、だいぶ前に新刊本で読んでいたが、文庫化されたんで文庫本を買った。本文庫の親本刊行は、1996年11月。同じく文芸春秋社より。今では宮本常一の名はだいぶ知られるようになっている、と思う。


旅する巨人、といえば宮本常一のことになるだろう、が、渋沢敬三をぬきにして宮本常一を語ることはできない、のだった。

正直なところ、私は宮本常一のことをほとんど知らなかった。
直接お会いしたことがないのはもちろん、著作などを読んだこともなかった。 民族文化映像研究所姫田忠義という人の業績を通して、名前を耳にしていたに過ぎなかった。


この本は、宮本常一の生育地、瀬戸内海の周防大島から始まっている。
宮本がそこで生まれ、かつどういう家庭環境の中で育ったかが、後の宮本の業績に大いに影響しているのだ。

そして、 渋沢敬三は、渋沢栄一の孫だが、父を飛び越して渋沢家を背負わねばならなくなって、そういう事どもを含め、いかにして宮本常一と出会い、宮本常一パトロンであり続けたか、が綴られていく。

宮本常一は、小学校の代用教員についた戦前の一時期を除いて、昭和40(1965)年、57歳で武蔵野美術大学の教授になるまで、定収入の道を一切もっていなかった、ために、柳田国男に比べれば長らくアカデミックな学会からは「忘れられた」存在だった。
日銀総裁や大蔵大臣を努めた経済人でありながら、柳田国男折口信夫らと並ぶ民俗学者でもあった渋沢敬三もまた、祖父の影に隠れて「忘れられた」人になろうとしていた。


早稲田大学卒業後、出版社勤務(何年勤めていたかは不明だが)を経てノンフィクション作家になった著者・佐野眞一は、 子供の頃の読書体験や自身の職業との近似性(収入や身分の不安定さ)から、 まず宮本常一にひかれ、宮本常一の評伝を書こうと思った、とあとがきで書いている。
宮本の生涯を追う中で渋沢敬三という存在もまた、当然著者の視野の中に膨れてきたのだ。
日本資本主義の父ともいわれた渋沢栄一を祖父にもち、経済的に何不自由ない子爵家に生まれた渋沢敬三と、瀬戸内海の貧しい島に生まれ誇るべき学歴も持たなかった宮本常一、二人は本来からいえば交わるべき接点はなかった、
それが、交わるどころか、宮本は敬三と出会って以来30年近く渋沢家の食客となっていた。
なぜか。?
それを解くには、単に二人の個人史を追うだけでは足りなかった。
こうして、著者は、二人の二代前のルーツまで遡る。

あとがきで著者は、さらに、 経済成長に価値観のほとんどをおきひた走りに走ってきたつけを嘆くようなことも書いているが、この様な心情は、昭和30年代の頃の記憶のある私にも充分理解できるところなのだが、 私はむしろ、著者が二人の二代前まで遡っていったことを、より評価したい。
宮本常一渋沢敬三の評伝なのだが、はからずもそれは、家族とは、親子とは、を考えさせられる物語ともなっていると、思える。
著者は、渋沢敬三の長男や宮本常一の息子にも取材している。

私には、幼少時母が亡くなったために腹違いの弟がいるのだが、 育ちの違いをつくづく痛感することがあるのだった。