Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

宮本常一

宮本常一の人物評で、私が一番ひかれたのは、その記憶力に関することだ。

古老たちとかからの聞き取りに、メモさえとらなかった、しかし、後で文章に興した時、抜群の記憶力?を発揮した 、というし、
一度みた景色は忘れない、しかも、その景色の見方が尋常でなかった、そうだ。
たとえば、ある野菜が植えられている畑をみただけで、そこの集落の経済のレベルとその集落の歴史的変遷を的確にいいあてた、とか。
ひとつの風景から、膨大な情報を紡ぎだしてみせた。
しかるに、全国行脚の旅で得た知識・情報・技術を、他の集落に伝え歩いて指導する、一種の文化伝播者でもあった。


私が思うに、
宮本常一も、一種の映像派的人間だったのだ。

アメリカインディアンムーヴメントのリーダーの一人、デニスバンクスと森田ゆりの 『聖なる魂』という本を読んだ時も思ったのだが、インディアンたちは押し並べて記憶がいい。
ある時のある所、あの時のあの人は右から何番めに座り、何色の服を着ていて微笑んでいて・・云々、てな具合に、 まるで頭の中にネガフィルム(今ならディジタルか?)があってそこに映像が焼き付けられているかの様に。
それを、語るかのごとく、文章にしていくのだろう。
しかも、その映像を引き出してくる術がうまい。
景色をみて、なんらかのきっかけにより、関連性のものがズルズルと蘇ってくるのだ。

これは、文字に頼らない暮らしをしていた(している)人間たちに、共通していると思う。

隆慶一郎の『花と火の帝』に、このての人物がでてくる。
 一見、ぼうようとしたとらえ所のない人物とみえるが、一度みたことはけして忘れないのだ。

とにかく。
日本全国津々浦々歩き、くまなくその足跡を残したことだけでも驚異的なのだ。
そして、すばらしきインタビュアーでもあった。
瞬時にして初対面の人の懐を開かせてしまう、らしい。 それは、育った郷里、周防大島という土地柄の影響がある、と佐野眞一は書く。

姫田忠義氏も、そんな宮本常一の術にはまった?一人、らしい。

私は、東信州の生育で、東日本所属といってよく、私にとっては、西日本関西以西は異文化圏と思えてしまう。
日本という所は、地図でみる範囲よりはるかに広い広がりを有した国なのだ、とあらためて思う。

そうして。
宮本常一にとって、旅とはなんだったろう。と。