Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

映画を観るということは

先日『映画館で映画を観ることは』
と、書いた。
けれど。それは、あくまでも、映画館が遠くて車で出かけて行かねばならない田舎に住んでいる私の場合だった。
シネコン。これは、映画館で観る環境がいいとは言い難い。上映時間をチェックしてその時刻に合わせて出かけて行って、見終わったら映画館を出なくてはならない。上映される映画は、およそエンタメ系に限られる。
20歳代を東京で過ごした私にとって、映画館で映画を観るのにいい環境というのは、やはりどうしても都市部になってしまう。二本立て上映される名画座とか、エンタメ系ではない映画上映とか。
チョットてまひま出せば(距離的に遠くなるけど)NPO 法人運営の映画館があるが。
そういう映画館は、そのスタッフが上映したい独自のプログラムを組むことが可能だ。かつてあった街中の映画館が商業的にやっていけなくなった、けれども、映画館を失くしてしまいたくないと思った人達が運営をかってでた、そういうところだろう、と思う。やっていけなくなった映画館の存続は別としても。
ともかく。
今の私の場合、映画館へ映画を観に行くとなれば、ほぼシネコンだ。
そして。『あ~~~面白かった』で終わる様な、そういう映画館体験だ。
けれど、映画を観るということは、それだけのことではなかった。
つまり、映画じたい、エンタメ系ばかりではない。もっと様々な映画がある。
映画は、様々な要素を有している。
どの様な映画を観るかによって、映像受容体験は違うだろう。
では。
動画映像を見る、という体験をどうとらえたらいいだろう?

体験というのは、身体全体での感覚だ。
五感以外の感覚も加わる。時間経過感覚とか移動感覚とか、そういったものの、総合的なもの。その体験が、自ら積極的に動いてなされたものか、そうではなくて受動的なものであるかでも、感受性は違うはずだ。

動画映像受容体験は、視聴覚だけだ。
最近では3Dとか4Dとかもあるそうだけど。

私は、戦争を体験したことはないし、大災害にあったこともなく、災害による肉親者の死去も避難所体験もない。
それで、そういう映画を観た場合。
学校とかで受動的に見せられるのではなくて、自分から見に行こうとして観た場合。どう考えるか?

昔、成田三里塚闘争とか学生運動とか水俣病とかのドキュメンタリー映画を観たことがあったのだけれども。それは、全く観ただけのことだった。それで、私自身が何らかの行動を興すことはなかった。水俣へ行ってみるとか闘争運動体験者に会ってみるとか。
全く、今思うと、なア~~~んでみたんだ?って感じ、単なる興味でしかなかった。
遠い所の、過去の、記録。私自身の現実には関係なかった。
そもそも、私は、そういったドキュメンタリー映像を現実にあったことと認識していなかった、と思う。

共感の度合い、だと思った。
他者の体験談を聞く場合もしかり。
自分自身に引き寄せて思えるかどうか。

私は、自分自身の体験でさえ、蓋をしてしまって向き合おうとしていない。

しょせん、人は自分が見たいことしか見ていない、と言ってしまえばそれで終わり、だろう。
現実は、それでは済まないことがある。

歳とってきて、自分の現実に真摯に向き合わねばならなくなっている。というわけだ。