Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

映画製作者、中村賢一

『十九歳の地図』 のスタッフに、中村賢一の名をみた。
 この名前が 私の記憶に留められるようになったのは、いつだったろう?


原田真人に関して書いてた時『ウィンディー』の製作にあり、その後に山田典吾氏について書いてたら『はだしのゲン/涙の爆発』に、また名をみつけ、
私の大好きな『この胸のときめきを』にもあったし、 そうして『十九歳の地図』だ。

「中村賢一」で検索してみると、関わった映画作品は出てくるのだけど、その人の略歴を書いてあるものがみあたらなかった。
一番最初は『はだしのゲン/涙の爆発』の製作補のようだから、現代ぷろだくしょんに聞いてみれば、どういう来歴の人だか判るかもしれない。?

その後に『十九歳の地図』('79)で、いきなり?製作に名が出る。
1981年に『夏の別れ』(監督・井上眞介)でプロデューサーをやり、
翌年、石山昭信氏の監督デビュー作となる『胸さわぎの放課後』('82)〔ここで中村賢一は企画〕がある。
石山昭信氏は現代ぷろで『もうひとつの少年期』を監督していて、私はこの作品の撮影期間に現代ぷろにいた。
1984年に『ウィンディー』(監督・原田真人)で、製作に名が出ていて、
'85年に『カポネ大いに泣く』(鈴木清順)でプロデューサー、
'86年、『まんだら屋の良太』(石山昭信)で製作、 1987年は三本の大活躍。『フリーター』(横山博人)で製作、『漂流教室』(大林宣彦)で製作総指揮、『パッセンジャー/過ぎ去りし日々』(和泉聖治)でプロデューサー、として名がある。
そして、1988年に『この胸のときめきを』(和泉聖治)でプロデューサーと、『恋はいつもアマンドピンク』(横山博人)で製作。
ここまでなんだ。

これ以後はない。

不思議な人、という感じもあり、いよいよ私の興味は深まるのであった……
(o^o^o)



製作とプロデューサーの違いがよく解ってはいないのだけれど。。
私が思うには、製作ははお金の工面のみならず、スタッフの手配人事権やキャスティング、さらには初号アップ後の上映配給まで、最初から最後まで取り仕切る人だと思う。 プロデューサーはも少しせまいのではないか?
どうかな?