Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

モンタージュ、理論

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フィルムのつなぎ合わせが独自の意味をもたらすことは、映画創成期(映画なるものはフランスで誕生した)から知られていたそうで、「モンタージュ」とは、元来フランス語で「(機械の)組み立て」を意味する、という。
それが映画作法での言葉に用いられ、それから(殆ど同時期に)、ソ連(当時の)にわたって、より理論化された。

Wikiでは、グリフィス・モンタージュなる言葉も出ていたけれど、
ここでは、1920年代のソ連無声映画製作者達のことに絞る。

「クレショフの実験」(クレショフ効果)というものがある。
無表情の男性の顔アップの映像の後に、
それぞれ、スープの張ったお皿、棺に入った遺体、ソフアに横たわる女性、をつなげたものを、それぞれ三人に見せて、男性の顔の表情にどんな印象をうけたか聞いたもので。
顔アップ後にスープのお皿を見せられた人は飢えを、棺に入った遺体では悲観を、女性では欲望を、それぞれ、男性の顔に感じた、という。
つまりは、その後にどんな映像を繋げるかで、同じ表情でもずいぶんと違って見えるということの実証だった。

それから、
プドフキンという人は、映像をつなぎ合わせて「映画的現実」を創り出すことがモンタージュと考えて、映画作法の技術的方法論の延長戦上でとらえた。

エイゼンシュタインは、映像どうしの衝突や葛藤によって、抽象的概念すら創出しうると考えた。
弁証法。AとB、まったく相反するものをあわせて、第三の新たな意味を生み出す論理的思考法。
これのが、映画作法におけるモンタージュ理論により合っている。 少なくとも、エイゼンシュタインはそういうことを考えて、「戦艦ポチョムキン」を作った。と思う。
そのエイゼンシュタインモンタージュ理論の実証的映画が『戦艦ポチョムキン』(1925)で、ベビーカーが階段を暴走し下るシーンは、あまりに有名で、後世の映画監督を刺激した。
有名なのは『アンタッチャブル』(1987。ブライアンデパルマ)。シカゴ、ユニオン駅での銃撃戦シーンで、「戦艦ポチョムキン」のそのオデッサの階段シーンが引用されている。

モンタージュ理論なるものは、ソ連で発展したと言っていい。

その後、第二次世界大戦後、フランスの映画批評家アンドレバザンという人がモンタージュ理論(技法)を批判して、更にヌーベルバーグ映画誕生へとつながっていく。
ヌーベルバーグについては別記する。


さて。
フィルム編集は、フィルムを「切る」でしょうか、それとも「繋ぐ」でしょうか。?
繋ぐためには切らなくてはいけない。 切ったら繋がなくてはならない。
・・いや、日米の言い方は違う、そうだ。
観察映画といわれる映画作品を発表している想田和弘氏は、『アメリカでは切るといい、日本では繋ぐという』、『切る、は引き算、繋ぐは足し算、的な感じがする』と書いている。
なるほど、だ。
ちなみに、「人生でも余計なものは切りたいけど、切りすぎるとうまくいかないんだよなぁ」 とも。!


映画は時間と空間を自由に操れる魔法だとすれば、
ままならぬこの世の現実を思う様に作り上げていきたいとの願望を満たす手段として、人間は映画というものを生み出すべくして生み出したのだと、いっていいのかもしれない。