Eigamuroのブログ

映画は映画館で観たい。なんで? &映画や旅等に関する雑学ノート

『かもめ食堂』(2006)

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これは、映画を先にみていた。
だから、色々、疑問があった、けれども、後に小説を読むことができて、それからDVDを買って再見したりして、それらは殆ど解消した。
で。以下、小説を読む前に書いたもの。

――――――――――――
この映画には、私の興味をおおいにひくものが二つあった。
ひとつは、井上陽水の歌。そしてもうひとつは、なんといっても合気道

かもめ食堂を営む女性が合気道を習っていたという設定。
夜、寝る前に彼女が膝行をやっていた。 なんで寝る前?ちょと疑問。
フィンランドにも合気道やってる人がけっこういることを私は知っている、が、彼女がそこで稽古したりあるいは合気道習ってる人がでてきたり、そういうシーンはなかった。
彼女は水泳をしていた。
それから、女性達四人でサウナから戻ってきた時、食堂に入り込んでた男に、彼女が合気道の技をかけるシーンがあった。
四方投げという技。
あそこは、できれば巻き戻してみたいとこだ。ORスローモーションでもう一度。

ラストソングは「クレイジーラブ」だが、劇中に一度だけ陽水の歌が流れた。そいつが思い出せない。 悔しい!

蛇足??
・みどりさんがどこか遠いとこへ行きたかったのは・? そこらは全然判らない。
もたいまさこ(役名は忘れた)のシャドウギター、見てみたかったなぁ!
もち、片桐はいりのも!
フィンランドの森、もっと見たかったなぁ・…
・そういえば、もたいまさこがもらったあの猫、なんで?
・みそ汁が出てこなかったような・・? おにぎりには、やっぱみそ汁!と思うけど。?

さてさて、あれからあの三人?いや、食堂の女主人以外の二人はどうなったかなぁ・・
最後、いらっしゃいませぇ、で終わりだ。
この映画、いいねぇ~~~。
――――――――――――――

以下、その後、小説を読んでから。
――――――――――
和歌山県本宮在住の友人に会いに行った時旧本宮町役場の中の図書室で、群ようこのこの本を見つけて、読むことがようやくできた。
映画にするために書き下ろしたものらしいが、実際映画になってみると、異なっているとこがあると判った。
原作本では、サチエさんが習っていたのが合気道だとは、どこにも出ていない。 古武術になっている。
それから。サチエさんがどうしてフィンランドで食堂を開くことになったのか、開けたのかが、本には書いてある。
かもめ食堂という名にした訳も。

う~~~~~ん……
食堂を開けた訳は、あれでいいのか・・?
映画にはなぁんで描かれなかったのだろう・・? フィンランドで食堂を開きにやってくるまでのことが、少しはあってもよかったと思うけどなぁ・・
みどりさんがどこでもいいから遠くへ行きたかった訳も、判った。

どっちがどうなんて、言えないな。
どっちも、それはそれでいいんじゃない?
これは、小説と映画、ふたつでひとつ、といっていいという気がするな。


願わくば。
男性が主人公でこんな様な映画があるといいなぁ、って気がした。。
――――――――――――――――

蛇足
もう1つの陽水の歌は『白いカーネーション』、だった。

『劔岳/点の記』

f:id:Eigamuro:20210808103841j:plain劔岳/点の記』(2009)
これはもぉぉ~~~~… すごい。

願わくば、も少し、山の映像にひたっていられる様な、そんなじぃっくりした長さのシーンが、欲しかったなぁ。
俺としては、あ、この絵、もっと見ていたいのにぃ、てなとこが。

上映時間2時間19分。
ぜんぜん長くなかった。

空撮CG、いっさいなし! だそうだが。(特撮は?ワカラン)
一ヶ所だけ。雪崩のシーン。あれは? どうしたんだろ? あの場で人工的に雪崩をおこさせたんかな?
ちょと気になった。
南壁を登るに関しても。ちょっとだけ。 ?
山岳会の連中の中に、ヨーロッパ式アルパインスタイル(?登攀技術)を学んできた人はいなかったんかな?つまり、岩壁の登攀。ハーケンとかハンマーとかアブミとかロープとか使っていけば、なんとかなったんでなかろか、と。?
あの頃。日本に山岳会ができたてで、装備用具やビスケットとか、手に入れられてたくらいか。

パンフの中で、浅野忠信へのインタビュー記事(もちろん、他香川や松田や仲村や別所とかのもあったけど)の中に、まことに興味深いのがあった。

浅野いわく、
「いつ自分になってもいいと思える瞬間がいくつもあった。僕らは明治時代の柴崎さんたちと同じ場所同じ状況にいて撮影してる。そうすると、今自分が感じてることは、絶対柴崎さんも感じてたと確信できる。だから、そこで自分自身に戻って僕が思ったことを言ったり、感じたことを体で表現しても、それは柴崎さんも経験していたことだと。 本物の場所で撮るということは、こういうことかと思った。」

関連で、仲村トオルのインタビュー記事。
「最初の頃、小市君と二人で劔御前まで行って初めて劔岳の頂上を目の当たりにするカットを撮った。その時に〈ここは東京のスタジオでグリーンバックを前に合成カットを撮ったら、きっと息切れしてみせたり、劔岳を見た感動と畏怖の念を何とかして表現しようとするだろう。 でも、俺たちはほんとうにここまで登ってきたんだから、ただ山をみていればいいんだよな〉と感じた。 おそらく、この映画での僕らの仕事は、まるで合成だと言われてしまいそうな凄い映像を、実際にその場に立っているんだと証明してみせることなんじゃないか。 そんなことを香川君とも話し合いました。」

浅野忠信の言葉から、
やはり演じているんだなぁと思った。
意識して役になりきることをしているタイプというか。 以前、松山ケンイチについて書いたことあるが、彼は憑依型タイプだった。 意識して演じるという感じではないらしい。
役を演じるのではなく、自分自身が感じていることをそのまま表して、それでいいと・・
映画撮影においても(演劇舞台空間と同様に)、人工的空間の中で、創作された役になりきることを要求されることがもちろんある。ことに 屋外ロケじゃなくて、スタジオ内セット撮影の場合。
けれども。 大自然の中で、映画撮影ではありながら、やたらな?演技などむしろ不必要なのだ。 さもありなん、と思う。大自然の中で、そらぞらしい演技なんかしてほしくない。
(さて。『植村直己物語』での西田敏行は、、どうだったろう?)
まさしく、仲村トオルの言葉も象徴的だ。
確かに、合成やCGでやれるかもしれない。 が、しかしなのだ。

木村大作は、監督に言われた通りに撮影するだけのキャメラマンではなかったし、師匠と仰ぐ人は、撮影助手としてついた宮川一夫とかではなくて、むしろ黒沢明だったと言っている。
一切の妥協をせず、自分がやろうと思ったことをやり通す“本物の映画作り”はもうできないのかということに挑戦したのだそうだ。
「これは、映画撮影ではない。行である。」、そうだ。

蛇足。
キャスティングに関して。
(^^ゞ 雑感です。
蟹江一平は、蟹江敬三の息子なんじゃない?
松田龍平もいるし。で、なんとなく。 小市慢太郎、って平田満に似てる気がした。(^^ゞ だから?だけど。
・それからねぇ……
陸軍少尉に笹野高史
山の行者に夏八木勲、なんだけど・・ん~~~~、これは、なぁ…
逆なんでないかなぁ?
・長治郎の妻に、鈴木砂羽。これは?。 垢抜けしすぎてやしないかなぁ?

蛇足②
この映画で、「木村大作、 たいしたものである。」と思ったんだけど。
二作めの『春を背負って』。これはダメだった。↑上記、キャスティングに関しての私の危惧もあったし。
何よりも、設定をまた北アルプス(立山?)にしてしまった、その安易さは憤まんもの。更に、ラストの方のグルグル回るカメラ撮影シーン。恥ずかし過ぎる。

『植村直己物語』(1986)

DVDで。上映時間二時間。だけど、、感動しました。

脚本が岩間芳樹佐藤純弥
やはりうまい、と思った。岩間芳樹、映画の方はさほど多くない。
植村直己という実在した人の人生を物語化する際、どこに焦点をあてるかが鍵になると思うが、この物語は、奥さんの側においた。
植村直己がマッキンリーで消息を断ってから一年くらいたってからの映画製作。(1986は公開年だから)
だからこそのラストシーンだろう。
おそらく、このラストシーンのためにこそ、この映画はつくられたのではないかとさえ感じられる、そんな、いいラストだ。
特に(『だらしないんじゃないの』の後)、残された妻にあのように(『彼に出会えて幸せでした』といったものを)語らせる、それはなんともすごいことだと、両親や親族の死去を体験してきたこの歳になってそう感じる。
あの『だらしないな』との言葉は事実だ。(のはず) アマゾン川筏下りや日本列島徒歩縦断は、この物語には出てこない。

西田敏行、でよかった、、といっておこう。(その前に椎名誠に打診していたそうだが)
当然ながら、若い。
1947年生まれの西田、撮影時38歳、か。・・・?
けっこう海外ロケ敢行してたり金かけてると思われるんで、それなりにペイできるキャスティング、だろう。
製作は、毎日放送電通だ。配給は東宝
製作協力に、文芸春秋毎日新聞社
植村直己の初めての本『青春を山に賭けて』の出版が毎日新聞社で(1971年)、次の『極北に駆ける』が文春だった(1974年)。その後も文春からの出版本が多い。

そういや、監督の佐藤純弥、大作を撮らせられる(まかせられる)人ってな印象だが、脚本も書いてる感じはしなかった。(のだけれど、そうでもなかった)
で。前半、山の頂上のシーン、不満だ。
頂上にたてる旗、なんではためいてないのだ?。ヒマラヤの山の頂上が無風になるわけぇ? そらなくはないだろうけど。あのシーンは不満だな。

ともかく。
アマゾン川筏下りや日本列島徒歩縦断シーンはないとはいえ、日本でのバイトしたシーンや友人たちと飲んでの会話や実家で父に怒られるシーンやら、人間・植村直己の生涯を手堅く?二時間にまとめてあげていて、いい映画になっていた、と思いました。


ちなみに。
植村直己自身の著作物じたいはけして多くはないが、植村直己の、人物や経歴などが他の多くの人たちによって書かれ・映像化されている。
私自身は、、植村直己の名をすでに高校生の頃知っていて、こういったものの本もいくつか読んでいたのでした。
本多勝一・武田文男編『植村直己の冒険を考える』 長尾三郎『マッキンリーに死す』能勢順『植村ですどうもすみませんです』 、など。

それにしても、植村直己のマッキンリーーでの遭難は、残念でならず原因が気になってしまったものだった。
……………植村直己(1941~1984)、享年43歳

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山岳映画。?

『エベレスト神々の山嶺』をみた際、
ツッコミどこいくつもあって、全くなんじゃこりゃ~~~👊って感じした(特に尾野真千子が山に向かって叫ぶとこ)ものだが。

山岳映画と山岳アクション映画とがあると思う。
山岳アクション映画は、スタローンの
クリフハンガー』('93)とか、『バーティカルリミット』(2000)など。山岳地帯でのアクション映画。
山岳映画というと・・『劔岳/点の記』かな?

そうして、
・・?詳しく調べてないから自分の感じでしかないんだけど、エベレストよりも(世界第二位の)K 2が舞台の映画のが多いんじゃないだろうか。
バーティカルリミット』の舞台もK2だったし、フランクロッダム監督(は『さらば青春の光』で有名だと思う)の、
『K2 ハロルドとテイラー』。1991年公開。
日本での題名は『K2 愛と友情のザイル』
これは見たことある、けれども、だぁ~いぶ昔。藤岡弘が出ていたけどほんのちょっと、台詞もチョットだけ、といった程度の記憶。

私は未見だけど、『K2 初登頂の真実』(2012年)というのも。
これは、K2に初登頂したイタリア隊の話し、らしい。
「初登頂の真実」とあるが、初登頂者に関してのこと(謎とか)ではなくて、当時最年少で登山隊に参加したWボナッテイに関する(不当な批判?の)ことのようだ。

そうして、
ドキュメンタリー映画
『K2 白き氷河の果てに』。
1977年にK2に挑んだ日本隊の記録。

1978年6月公開。 122分。
東宝東和創立50周年記念作品。
K2日本人初登頂劇場用長編記録映画。
企画・製作、北斗プロダクション。
製作、蔵原惟二
監督、門田龍太郎
音楽、いずみたく
歌、上条恒彦
ナレーター、中村吉右衛門

ラストの方、高みへとひたすら登る登山者を、カメラは上の方からとらえ続ける。
動きはまことに鈍い。呼吸音がだぶる。 そこに、作詞岩谷時子で、上条恒彦の歌が流れる。
ここらは、映像の力あり、って感じだったと思う。

隊員たちは、自費を捻出して参加してる。学校教師、スナック主人大工山小屋従業員公務員などなど。 勤務先をやめてきた人もいた。
そんな人たちの寄せ集め。?
映画は、参加者たちのバックグラウンドには触れず、ひたすら山登りの記録に終始する。
ここに、『狼は帰らず』(佐瀬稔・著)の、森田勝が参加してた。が、森田は登頂できなかった。選ばれなかったのだ。森田はそれを不満とし隊を離れた。

K2、8611メートル、世界第二位の高峰。1954年イタリア隊が初登頂。日本隊は二番目。 1977年8月8、 9日の二度。

 この映画のパンフレットをもっていて(入手時期や経緯はもう判らないが。つまり、映画館で観た際に買ったものなのかor後でどこかで購入したのか。?)、これが一番記憶に残っている。
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『めまい』関連

A・ヒッチコック監督の『めまい』、
特に、撮影技法に関して。

以前に、世界で初めてズームレンズ撮影された映画として、『夜の大捜査線』('67) をあげたことがあったのだけど。 それは間違いだった。
検索によるウィキペディアにあったものを、そのまま引用して、日記にアップしてしまった。([映画 夜の大捜査線]で検索すると書かれてある)
、別のブログでコメントがあり、間違いを指摘されて判明した。。
では、映画において、初めてズームレンズ撮影された映画は何か?となると、ずっと疑問は残ったままだったのだが、別のブログでも掲載したことで、『めまい』では?となり、以来ずっとみたいと思っていたのがようやくかなった。。
「ズームレンズ」で検索すると、どうしてもスチールカメラの方になってしまう。ズームレンズじたいは戦前からあった。
映画のムーウ゛ィカメラに使用されたのがいつなのか?がよくわからないが。ムーウ゛ィカメラのズームレンズも戦前からあったようで、日本で戦前ズームレンズ撮影された映画があった、そうだ。。
1937(昭和12)年の『新しき土』(日活映画)というもの。
これまた別のブログにアップしたことによるもので。
この映画の撮影技師はドイツ人で自国からズームレンズを持参している、 その後東宝でも、1947(昭和17)年の『ハワイ・マレー沖海戦』でズームレンズ撮影シーンがある、この特撮カメラマンは円谷栄二で、円谷栄二は『新しき土』のドイツ人撮影技師の助手だった、云々とのありがたいご指摘をいただけた。。
日本においての初のズームレンズ撮影使用映画が1937年の『新しき土』でドイツ人が持参したズームレンズ、となると、それよりも前にズームレンズ撮影使用映画があったはず、と思われるが、?

『新しき土』、検索してみたら、、なぁ~~~んとなんと、2012年四月から75年ぶりにリバイバル上映が行われた、そう。・・!!これはすごい!
日独合作映画。戦前の、日独協定合意によるもの。 原節子や早川雪州、出演
、日本側監督が伊丹万作
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E5%9C%9F

ともかく。
『めまい』は1958年公開。
【めまいショット】と呼ばれている有名なシーンがある。。 ズームアウトしながらカメラを前へ移動させて撮影されたもの。
ほんの数秒程の短いシーンだが。これによって、被写体サイズが変わらずに広角になる。まさに[めまい]するよなシーン。
二度ある。一度めは、始めの方。急斜面の屋根から滑り辛うじて雨といにぶら下がりふと下を見たショット。
もう一度は終盤の方。教会の鐘楼の階段から下を見下ろすショット。
後にS・スピルバーグが『E.T』の、崖から街を見下ろすとこで完全なシンクロシーンを描いた。そうだ。(*^_^*)
ちなみに、被写体のまわりをカメラがぐるぐる回るシーンも、有名、らしい。 これは、後にB・デ・パルマ監督が何度も用いてる。

私がこたび見たDVDは、最新技術によって修復されたフィルムによるもので、
カラーもきれいだったし、とうてい50年以上も前のものとは思えなかった。(この修復フィルムによる公開は1996年)

さて。
ともかく。私は映画における世界初のズームレンズ撮影に関して書いておきたかった。
この映画については……(*^_^*)
正直なとこ、ちぃとばかし・・?!DVDでだし、ちいと長い感じ。そして、なによりも音楽が、、、ちょとうるさかった。(*^_^*) 女優さんの服装もすばらしいし、これまたとうてい50年以上も前の映画とは思えない。
これは一度みただけじゃダメみたい、と思った。

『夜の大捜査線』、関連で

改めて、『夜の大捜査線』。1967年公開。
DVD買ってあったからまた見てみた。

この映画に関しては、
映画の内容そのものよりも、この映画に関することどもの方のが、私にとってはより興味深いのだった。

その一つが、映画でのズームレンズ撮影についてのこと。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E7%B7%9A
↑↑↑
ウイキペデアに書いてあったこと(この映画エピソード欄に書いてある)をそのまま書いてアップしたことがあった(2011/02/19、mixi)。
が、その後、別の所にもアップしたら、そこで指摘されたのだった。そんなはずない、と。

1937年公開の『新しき土』ズームレンズが使われている、そうだ。
世界初のズームレンズ撮影使用映画は、おそらくこの『新しき土』、と思われる。
『めまい』の公開は1958年、ここでもズームレンズが使われていた。いわゆる「めまい」ショットで。(『めまい』については後記予定)。

もう1つは、
編集者にハルアシュビー。
そう、1971年の『真夜中の青春』で監督になるハルアシュビー。

今回、改めて検索してみて、そうして、また新たな発見あった。
撮影のハスケルウエクスラーに関して。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC

既に亡くなっていた。

ハスケルウエクスラーが撮影技法を学んだ先生はジェームズウオンハウで、
さらにこのウオンハウの先生がヘンリー小谷という人だった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E5%B0%8F%E8%B0%B7
このヘンリー小谷という人、知らなかった。
演劇興行だった松竹が1920年に映画製作にのり出した際に招かれて、日本映画製作の基礎を造形した人と言っていい、。
現在使われている言葉、シナリオキャメラスタジオロケハンエキストラ等々、このヘンリー小谷が持ち込んだものだそうだ。
広島出身の日本人(?)が、アメリカと日本の映画カメラマンを育てている、ということになる。
なかなか興味深い。

それから。
もう一つ。蛇足めくが。
夜の大捜査線』でのズームレンズ撮影。ミシシッピー川にかかる橋を逃げて行く容疑者へのズーム。うまいですねぇ~~~~

リトルショップオブホラーズ

『リトルショップオブホラーズ』
1960年
製作・監督、ロジャー・コーマン脚本、チャールズ・B・グリフィス
B級映画の帝王ロジャー・コーマンの異色作。低予算ながらカルト的な人気を得た。無名の頃のジャック・ニコルソンの、最初の「存在感」で有名】 で、
【コーマン監督、究極のホラー・コメディ・カルト!映画マニア必見!!】(以上、DVDパッケージ裏表紙記事より)
だそう、だが・・
実のところ、私にはよく解りません。(*^_^*)
私は映画マニアじゃないと思う。 だいぶ前に書いたと思うが、基本的に、私は映画館の中でスクリーンをみて没頭していられる一時が好きなだけで、 何か(あの脇役チョイ役の人とかSFものとかの登場小道具とか)に凝るわけじゃない。
さて。
お話内容はたいしたことはない。 なにしろ、二日間で撮っちゃった、らしいし。?
ロジャー・コーマンについては、前に書いた。
まずおそらく、ロジャー・コーマンの功績といえば、彼の下から何人もの有名になった映画人が出ている、ということだろう。映画作品ひとつひとつの出来具合評価よりも。

ジャック・ニコルソン
どこにどう出てくるんかと思ってたら、 ここではほんとにチョイ役程度。少ししか出番はなかった。
しかぁし!
すぐに判った。まさにジャック・ニコルソン
この頃からすでにあの演技(表情台詞いいまわし)、顕在。
1937年生まれだから、1960年当時23歳!!


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